升田幸三元名人が好んで使った言葉です。
「眼は大局にこらし、実行は己の足元から固めてゆく」と解説されます。
「新日本」誌の連載対談で升田幸三氏と財界人の対談が企画され、その内容が一冊の本「着眼大局着手小局」にまとめられました。数十人の経営者たちの言葉の端々に、着眼大局着手小局の心が感じられます。昔の経営者には、この言葉を知っている人が多いようですが、世代が変わった昨今の経営者はどうでしょうか?最近あまり使われなくなったように思います。「木を見て森を見ず」みたいな言葉はよく聞きますが、しかし着眼大局着手大局ではダメで、俯瞰して見ているだけで自己満足になっていないでしょうか?着手小局、具体的な落とし込みが大切だと思います。
「人生勝負」より
着眼大局・着手小局というのは、将棋の極意であると同時に人生の極意でもある。何ごとかをなしとげるには、つねに大局を見ていなければならない。五人なら五人の立場、十人なら十人の立場というように、多数のものの有利になるよう着眼しておく、そして着手は小局、つまり、現実をしっかりと踏まえ、細かいことをもおろそかにせず、まず手近なことから一歩一歩と着実に実践していくのである。
われわれが勝負する場合に、攻めに通じ、勝利に通ずるのは、小に小を重ねていくのが原理である。大きな夢はもっていてもいいが、勝負の鉄則を忘れて、はじめから大きいことをしようと思うと、どうしても無理がでてくる。とくに、何かいいことを考えつくと、うれしくなって注意力が散漫になり,戦術をまちがえてしまって、せっかくの効果があらわれなかったりする。やはり、現実は神様であり、先生なのだから、一歩一歩、よく眼をくばりながら着実に進むべきである。
行動を起こしてから読むというよりも、行動を起こすまえに、頭の中で読む訓練をしなければならない。それには、やはり実戦経験で読みを会得するようにつとめることだ。ただ漠然とやっていたのでは、いくら実戦を経験しても、蓄積されてこないのである。
部長や課長にならなくても、おれは平社員でいいのだ、という人たちのやることと、努力して偉くなった人のやることとは、同じことをやってもどこかちがっている。
反戦平和の節をつらぬき通し半生を生きてこられた哲学者・古在由重氏は、
「時流や時の権力におもねず、真実の生き方をえらぶ人と、俗利に足を取られ、心ならずも一生を使いはたしてしまう人の違い。大事に出会っての動揺の有無は『不動の信念』というものなら、その『信念』というものは、何によってつちかうことができるのか?」
という質問に対して、着眼大局着手小局のことばを引き、
「目先の利益にばかり心をとられていると人間はしだいに感覚的になり、知性を失って動物に帰っていくようなところがあります。といって、俗世を捨てた聖人のような生き方では、せまい意味の自己完成に終わってしまうような危険もあります。自分の一生で何が一番大切なことなのか。そこをしっかり押さえることが要(かなめ)なのです。必要なのは、何か固定した、教条的な信念よりも、かんじんかなめを見極める聡明さと、それにもとづく現実への綿密な対処でしょう」