奥山紅樹からプロ棋士になりたい少年に送った手紙

-専門棋士になりたい。
多くの少年将棋ファンがあこがれるこの道は、君が考えている以上に厳しく、並の才能や努力で乗り超えられない、大きな困難に満ちています。その最大のものは、勝つということです。棋士は、相手に勝たねばならない。そのためには、自分に勝たなくてはいけない。自分の欠点や迷い、スランプや動揺に勝たなくてはいけない。当たり前のことのようですが、これが一局の勝負ごとに刻印され、問いかけられる、実に難問なのです。

君が本気で専門棋士を目指そうとするのならば、「勝負に勝つことは、棋士の価値を決定する重要な要素だ」という鉄則をしっかり頭にたたき込む必要があります。どんなにすぐれた人格・識見の持ち主でも、勝たなくては昇段できない,棋界への発言権も弱い,ファンの見る目も違います。では、強ければいいのかといえば、これが大切なところで、世にいう○○バカといわれるようなタイプの人間では、とうてい一流のにはなれないのです。強い弱いは一般的にいって技量の差ですが、プロの場合、その技量を駆使する人間の”差”、つまりその人の人生観、価値観、ミスをおかさない沈着冷静さ、忍耐心や決断力、柔軟な感受性など個性の強さ、豊かさ、それに健康状態などで勝負が決まります。

十代の若さで、実力アマ三段クラスという少年は全国に三桁を数えるほどいます。その中には早くも奨励会入りが予定されている強者もいます。君は「もう、まわりには僕が勝てない相手は一人もいません」といいますが、事実はその通りでしょう。そして周囲の人も「プロ入りしたら・・・」とすすめているのだと思います。しかし、全国には君と同じような少年がわんさとおり、もっと若くして強い人がたくさんいます。仮に奨励会入会テストにパスして、奨励会に無事入会できたとして、問題はその後です。全国から選抜されてきた天才少年たちと、身を削るような競争をしなければなりません。

しかし、こんなことは苦労の序の口です。競争を続けているうちに一つの壁が訪れてきます。それは「芸の壁」とでもいうべきもので、例外なくプロ初段~三段(※アマ六段がプロ六級くらい)のころにやってきます。かつて中原名人もこの壁に突き当たって四年間も苦しみました。「あと一番、という昇段の一局を落とし続け、自分には棋士としての天分がないんじゃないかと思いました」-これは中原名人の談です。かなり高度な技術(盤上真理認識の方法)が身についたものの、その技術を駆使する人間主体の成長の方が遅れている-という状況、それが壁ではないか。ひらたくいえば、ちょうど、りっぱな教え(理論)を学んだからといって、その人間が実地に正しく行動できるとはいえない。しっかり人間性を練るという努力がともなわなければ、理論倒れのような現象が起こってくる。それが「壁」だといえるでしょう。俗に「ひとのことならわかるが自分のことになると目がみえなくなる」というでしょう?客観的にみれば真理がわかる。しかし、みずから実践者としてみた場合には、自我意識やプライドや虚栄心や主体としてのもろもろの感情が間に入り、前進・打開の道が見えなくなる・・・。わかりやすい実例でいうと、、棋士が昇段やタイトルをかけた、大切な一番に敗れたとします。問題はそのときです。敗北に直面したとき、そのときに棋士がとる行動はさまざまですが、一番大切なことは、へばらないということですが、その次に大切なことは、困難への「対処の仕方」です。棋士の盤上の「次の一手」に代わり、人生の「次の一手」を指さねばなりません。ここでその棋士の、人間として成長していく場合の、実力が現れるのです。しかしそれは一時の衝動の形をとりながら、実はふだんからの日常の過ごし方がそのまま出、それが次の大勝負の結果に直結するというこわい面を持っています。

君が奨励会に入って負けが込むと必ず一部の同僚・先輩から「君は天分がない」という「評」がぶつけられます。しかし、こうした「評」ほどあてにならないものはありません。
「天分とは地道な努力の集積である」
血のにじむような努力なしに大棋士への躍進はありません。