勝利の女神に好かれるためには

勝負の世界は、基本的には実力の差が結果に反映しますが、ぎりぎりのところでは「不可解な力」によって結果が左右されることがあります。良い結果を残すためには勝利の女神に好かれなければなりませんが、そのためにはどうすれば良いのか?

「人間における勝負の研究」(米長邦雄著 祥伝社)では、自分の利害に関係のない勝負で必死に頑張ること、と書かれています。正確には、その勝敗が自分の進退に直接影響が無いけれども相手にとっては大変な意味をもつ勝負のことです。目の前の試合の大きさでいえば、決勝戦とか昇級昇段の一番というもののほうが大きいことに違いありませんが、「運を呼び寄せる勝負」というものは決して大一番ではない、むしろ思わず気を緩めたくなるような試合にあるようです。自分には影響ないけれど、相手にとっては進退(昇級や降級)を決めるような勝負の時、相手にかかっている運命と同じ大きさの運(ツキ)が自分にもかかっているはず,というバランス論的な考え方です。この考え方は米長氏の経験談であったのですが、その後のご本人の談話などにもより、現在は後進棋士たちに常識のように広まっています。

米長氏が初の名人位を獲得されたときに出版された「運を育てる」(米長邦雄著 クレスト社)には、以下のように書かれています。
勝利の女神の判断基準は2つである。それ以外のことに彼女はおそらく目を向けない。これは、勝負師のとしての経験から言って、まず間違いのないところだ。
一つは、いかなる局面においても「自分が絶対に正しい」と思ってはならないということだ。謙虚でなければならない。どんなに自信があっても、それを絶対と思い込んで発信してはならない。
もう一つは、笑いがなければならない、ということだ。どんなにきちんと正しく身を処していても、その過程でまったく笑いがない場合には、どこかで破綻が生じる。少なくとも大成、大勝することはない。

「人生一手の違い」(米長邦雄著 祥伝社)からも紹介します。
高校に入学して、仕送りを受けるようになって、私はキセルをやめた。しなくともすむようになったということもある。しかし、考えるようにもなったのだ。
キセルをして金を浮かすと、浮かした分だけ必ずどこかで損をするに相違ない。たぶん運気を損ねるという思いが強くなった。一回キセルをするたびにそのツケが将棋に回ってくるのではないか。自分がキセルをしたことは、車掌も知らない。もちろん対局相手だって知らない。一回キセルをするたびに一番負けるなんてバカなことがあるか。
だが、自分は知っている。「天知る、地知る、我知る」という言葉もある。もし将棋の神様がいるとすれば、たぶん彼も知っているだろう。そして天罰を下すにちがいない。一度キセルすればそれに見合う運気を損なうはずだ。私は、キセルをするような人間がトップに立つとしたら、その世界はたぶんロクなものじゃないだろう、と考えた。キセルをするような人間はダメだし、そういう人間がトップに立つような世界もダメだ。ちゃんと自分の金でグリーン車に乗れるようにならなければならない、と思ったのである。

時効になったからの告白でしょうが、米長さんにもそんな(お金に苦しい)時代があったのですね。あまり良い例ではなかったかもしれませんが、運に関する雰囲気がわかりやすく感じ取れる逸話ですね。