この言葉は「勝負のこころ」(大山康晴著)の一節です。私は言葉のイメージとおりに受け取っていました。
何かを改善しようとしたとき、会社でいえばコストダウンとか不良低減とか、営業の売上アップとか、何らかの目標が設定されますよね。その目標をねらいにしても達成は難しいのではないか?例えば5%の目標だったら10%目指して実行する。10%達成すれば万々歳だし、少し足りずに5%を超えれば設定された目標値は最低限クリアできる。そんな解説をよくしていました。
プロになろうと努力して、なれなかったらアマのトップになるんだろうと思っていて、プロになれずアマの日本一でいいやと思ったら、それにすらなれず、県代表クラスで妥協しておくよと自分を納得させると、それ未満にしかなりませんでした。
大山康晴のその著書での解説はおおよそ以下の通りです。
「級位者のころ兄弟子の大野源一,升田幸三はすでに段位者になっていて、まずそこに追いつこうと努力してきた。何年かして初段になったとき、兄弟子たちは高段になっている,さらに何年かかけて八段になってようやく(段位としては)追いついたが、それに満足してしまうことが危険だと感じた。芸の道というのは自己満足したときにその人の進歩はとまってしまう。段位は目安に過ぎないと実感した。それから私は、名人を目指して競争を始めた。」
最初は小見出し(棒ほど望めば針ほどかなう)と内容が合っていないんじゃないかと思ったのですが、単純に望んだ量の何十パーセントが実現するという意味では無く、強く望まないと達成できない,満足することが「望む」という精神に対して強敵になる、といったことを書かれているのだと、なんとなくわかりました。冒頭の会社の改善例は物理的な行動であり、大山康晴は精神的な面でこの言葉を説明されているのですね。
今何か目標(夢)があって、それを達成できていないとすれば、心のどこかで現状に満足している自分がいるのかもしれません。「もしダメでもいいや,これくらいにきているから認めてもらえるよ」って妥協していると夢は遠くへ行ってしまいます。本当の本音ではどう思っているのか?心の声を聞くのは難しいかもしれませんが。