<カン>が<読み>を超える

米長勝負論講義

この本は、米長邦雄さんと柳瀬尚紀さんとの対談を文章におとしたものです。
目次は、
 第一章:天才・誤読・カン
 第二章:盤上のハムレット
 第三章:詰将棋の美学
 第四章:無限の回路
 第五章:逆転の構図
 第六章:棋士道の遊次元

タイトルにある「カンと読み」の話、一番伝えたい話は第一章に全て語られており、それ以降の章は補足のように私は思えました。ここでは、第一章から米長さんの言葉を抜粋します。

ぼくは天才とか秀才、あるいは努力、そうしたものはあんまり大したことじゃないんじゃないかと思うんですよね。いちばん大事なのは何かというとね、”熱意とその持続”だと思うんですよね。それに尽きると思うんです。
大山流の将棋理論と同じことなんですね。
大山さんがつね日頃言ってることは、「自分は体、肌で覚えた将棋だから、頭で覚えた将棋に負けるわけがない」と言ってるわけなんですよ。

最近の若い人は、いろんな棋譜、いろんな将棋、手筋でも何でも覚えていて、頭の中に入れている。
そして、ある局面で、「誰さんはこうやったが結果が悪かったから、あの手は悪い。だからこの手を指すのはやめよう」とか、相手がその手をやった場合は、「こうやれば優勢になる。だからその局面になったら、こうやる手が一番いい。なぜかといったら、何とか名人が指した手であって、うまくいったからだ」とか・・・。この局面はこうやったほうがいい、そういうふうに過去の棋譜をずーっと頭の中に入れて、改良していくんですね。そういう勉強ぶりが一番伸びる、それがいちばんいいというのが今の流行りなんですがね。

タイトルを取る人はそういうことをしないんですよ。
将棋が強くなる道というのはいくつかあるんです。

まず、将棋をぜんぜん知らない初心者がいる。これは弱いとか強いじゃない。知らないわけですからね
そのうちにルールをまず覚えるわけです。その人がどうしたら強くなるかといったら、指すことなんですね。何でもいいから、1時間の間にいっぱいいろんなことを考えて一局だけ指すんじゃなくて、5分で1局くらい指して、1時間の間に10局くらい指す。何でもいいから指すんですね。とにかく駒を動かしてさえいれば、いちばん早く強くなるんですよ、覚え立ての人は、そういう段階なんですね。何でもいいから触っていればいい。しばらく経って、強くなりますと、まあ読むっていうことになりますね。
「どの手選ぼうかな」とか、「相手はこうくるんじゃないかな」とか、予測がつくようになってくる。
そうなると、考えるっていうことになるんですけどね。まあそのくらいの段階から、アマチュアのほとんどの人は、定跡の本を買って読むとか、テレビを見て「あ、いい手があるな」とか、そういうふうにして、自分よりも強い人からいいものを吸収していく、そういう段階ですね。

タイトルを取る人はどういう勉強方法をとってるかっていうとね、まさに”誤読”なんです。
ある局面を読むんですよね。

ひとつ局面が出ますね。そうすると、何が大事かっていうことですよ。ここに局面がポンと出されるわけです。はじめて見る局面なんですよね。実践譜の途中経過です。中盤でも、序盤でも、ポンと出される。この局面について何がいちばん大事かっていうとね、たいがいの人は、その局面でいちばんいい手は何かっていうことと、正しい形勢判断を知るっていうことがいちばん大事なことだと考えるんです、まず。それからひとつ局面が出ますとね、これは誰と誰の将棋だろう、いつ指した将棋だろう、
そういうことを知りたがるんです、まず。それから、その局面はどっちが優勢なのか、あるいはどっちが勝ちなのか、形成互角だけどこの次にこういう手をやれば均衡が崩れてこっち側が優勢になるとか、形勢判断はどうか、その局面の最善手は何かということですね。それからその局面に至りまでにどういう手順で来たか。そういうことを知りたがるんですね。実際に指した手で、それを全部きちっと頭の中に入れちゃうっていうことはできるわけですよ。

ところがね、タイトルを取る人は、そういうことはいっさい無視するんですよ。
自然にそういうことは入ってきますよね。入ってきたものはもうそのまま頭の中に入れちゃいますけどね。それをもっと読むんですね。自分で見る。見てね、自分の結論を出すんですね。

まだうんと弱いころ、はるかに下のころ、ずーっと弱いとき。弱いときにその局面を見たときに、今ほどは読めないわけですね。あるいは読んでも、間違いだらけっていうことになるわけです。つまり、”誤読”ですよね。間違いだらけだけれども、自分はこの手がいちばん正しいんじゃないかとか、この手はいちばんいい手じゃないか、形勢はこうじゃないかという答えを出すんですね。それで勉強はおしまいになるんです。そこで。そうしますと、間違いだらけなんですね。読んだことはみんな”誤読”だらけなんですよ。弱い人間が難しい局面を見てるわけでしょう。だから間違いだらけなんですよ。出た答えも間違ってるんですね。形勢判断が狂ってるんですよ、弱いから。読んだことも間違ってるし、結論も、その手が最善手ということにはならない。いつでも最善手っていうことは、強いっていうことでしょう。ところが将棋はうんと弱いわけだから、この局面でこう指すんだという答えを出したって、それは最善手じゃないことのほうが多いですわね。もちろん、ときにはそれが最善手っていうこともありますけどね。それで、答えを出しますわね。で、自分で考えて結論を出せば、それが勉強。唯一の勉強なんですよね。あとはもう、よけいなことなんですね。その局面見て、「お前の考えは違う。お前はこの手が最善手と思ったようだけど、本当はこの局面ではこの手がいちばんいい手なんだ。教えてやろうか。これはな、誰と誰が指した将棋で、こういう経過でこうなっている。形勢は、お前はこっちがいいと思っているようだけれども、じつはな、こっちのほうがいいんだ。お前はそういうことをやっているけど、これで行くと不利になるじゃないか」これは余計なことなんですね。そんなことは。

ところが、いまはね、自分で考えて結論を出すっていうことは、ムダなことだと思ってるんですよ。
間違ってることでしょう。試験なんか出したときに、100点の答案を書かなくちゃしょうがないと思っているわけです。それはね、将棋でいうとアマチュアの段階なんです。たとえば、東京大学でもどこでもいいんですけれども、大学の入試問題ですね。どっかいいところへ行くっていうと、点数で判定しますでしょう。将棋でいうと、アマチュアの初段の免状を取るようなもんですね。東大へ入るというのは。

大山さんがね、「頭で覚えた将棋なんかに私が負けるわけがない」と、こう言ったからね。それでぼくは、その言葉を自分なりに考えてみたんですね。そうしたら、なるほど頭で考えた将棋はタイトルは取れない。正しいことっていうんじゃなくて、”誤読”の繰り返しによって将棋は強くなる。

将棋の場合、読むということよりも、むしろ形勢判断ですね。それは”カン”ですね。私の表現だと”カン”。局面を見る。この局面はこっちのほうが優勢である。歴然とあるわけです、これは。将棋の場面だけはぼくはわかるんですけどね。この局面はこっちのほうが優勢である、この局面ではこれが最善手ではなかろうか。”カン”なんですよね。パッと、閃きというのかな、”カン”というのかな、それでわかってしまう。時間の間隔としては、ほとんど1秒にも満たないわけですからね。ほんとの一瞬のうちですからね。だから”カン”と”読む”と二つの行為があるんですね。”カン”に較べれば”読む”ということははるかに次元の低い行為なんですよ。

“カン”はどこでもって培われるかというと、それは”誤読”なんですよ。それ以外にないんですね。
だからもう子どものころから、ぼくの人生の12から20までの約10年近くの間はね、1日何時間も”誤読”の繰り返しだったわけです。

升田幸三元名人は「にらんでいるだけで将棋は強くなる」と言った。同じことを言っていると思います。一生懸命”誤読”しているとき、きっと盤面を”にらんで”いるだろうから。
また、「勘というのは甚だしい力と書く」とい言って、勘の重要性を説明されていたのも、やはり同じ観点の思想だといえるでしょう。

この話は、最近ほんとうに実感しているところです。
会社の仕事でも、使い物にならない大学卒、大学院卒が多い。入試をクリアするために多くのことを”記憶”してきたのだと思います。記憶する、いろいろなことを知る、そういう行為でクリアできる課題もあるでしょう。でも、それだけで自信過剰になり、「私は○○大学に受かった頭のいい人間だ」という自慢だけで満足して、「考える」力が劣化していることに気づかず、社会に出て全く成果が上げられず、むしろまわりの足を引っ張っているけど本人は気づいていない。プライドが足を引っ張るダメ人間。そんなダメ人間を量産しているのが大学ではないかとすら思ってしまう現実があります。

エジソンは、丸覚えの知識とか大学出のエリートを軽蔑していた。
(現場で全く役に立たないから)
「現場で得た生きた知識には太刀打ちできない。教育は現場でやるべき」

考えることの大切さ、それを教えてくれる良書だと思います。